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自殺したいと思うような人生

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浄土真宗大谷派 長浜別院にて 皆さん、一度や二度は「死にたい」と思ったことありませんか? 私は何度もあります。しかしながら、実際には死ねずに今日まで生きています。ある時、知り合いから「死にたい。」と言うメールが届きました。その方は、何かあると、死にたい、死にたいとあちこちに言う方で、自らを精神的に病んでいるとおっしゃいます。初めは、皆さんその方の話を聞いて、なんとかならんかと寄り添う事もなさったと言います。しかしながら、寄り添っても寄り添っても、死にたいと言う言葉が無くなることは有りませんでした。そして私にも、ついに死にたいと言うメールが届いたのです。私は、その方に返しました。死にたいのであれば逝けば良いのです。人はいつかは逝く。今逝くのか、明日逝くのかは誰にもわかりません。逝きたいと思うのであれば逝きなさい。生きても地獄、死んでも地獄。どうせ地獄に行かなくてはならんのなら、南無阿弥陀と手を合わせ、今を生き切るしか私達に術は無いのです。と申し上げました。その方はひどく怒ってらっしゃいました。そしてメールは途絶えました。しかし、その方の SNS を見ると毎日更新されていますから今も元気でいらっしゃるのは間違いないだろうと思います。思い詰めて死んで行く。逝かねばならない人生。私達は本来、自らの命を生き切って、その役割を終えて死んで行くのが本来なのでしょう。自らの命を自ら断たなくてはならない事ほど悲しく、虚しいと感じることはありません。しかしながら、私達の生きている世界は正に生きても地獄、死んでも地獄の世界が横たわっています。人は、死ぬと、生きていた時の行いによって地獄に行くのか、浄土に行くのかを閻魔さんが決めるんだよね。などと言ったりしますが、むしろこの世こそが地獄なのでは無いでしょうか。お釈迦様は、人生とは一切が苦しみであると言っています。私とて、できれば他人に優しくしたい。穏やかに暮らしたい。しかしながら、現実にはそのような生き方がこの世でできるのでしょうか?明日を思い、今日を生きる時、私達は他人から奪い蹴落として生きねばどうにもならない生き場所を生きていると感じてなりません。良くありたい、優しくありたい。しかしながらどうにもならない私がそこにある。つくづく私は、地獄に行かねばならない愚か者だと思います。仏様は、そんな私を見て、泣いていてくださっている。浄土真宗のお...