歎異抄
暫くの間、歎異抄を読み進めて行きたいと思います。 歎異抄とは親鸞聖人の関東でのお弟子さんのお一人唯円さんの書かれたものです。親鸞聖人が60歳になられ、いよいよ教行信証の完成を目指して京都に帰られた後、関東に残されたお弟子さん達の間に、親鸞聖人から受けた教えとは違うことが起こって来たのでしょう。それを見た唯円さんは大変悲しみ、また、仏様や親鸞聖人に対して申し訳ないと言う思いもあったのでは無いでしょうか。そこで、後世に対して正しい念仏の教えを残したい。と言う思いから書かれたのでは無いでしょうか。それは、今現在の私達にも当てはまる事だと思います。暫くの間この歎異抄を手かがりに、私自身の念仏との向き合い方を、見つめて行きたいと思います。 第一条 弥陀の誓願不思議に頼みまいらせて往生をばとぐるなりと念仏もうさんと思い立つ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまうなり。弥陀の本願には、老小、善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。その故は、罪悪人重、煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには他の善も要にあらず。念仏にまさるべき善なきゆえに、悪をもおそるべからす。弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々。 阿弥陀様の誓い「私の国に生まれたいと、私の名を称える者を必ず私の国に生まれさせる。」と言う力を信じて、阿弥陀様の名を称えよう。と思ったその時、既に私達は救い取って捨てないと言う阿弥陀様に救われているのだ。と私は頂いています。色々な解釈はあるのだろうと思いますけれども、私の感覚としてそうなのです。なにも南無阿弥陀と称えていなくとも、称えよう!称えたい!と思ったその瞬間に、既に私達は念仏の世界に包まれている。そんな感覚が現にわたしにはあるのです。 阿弥陀様の本願と言うのは、年齢も修行をしているしていないも関係無い、ただ信心が肝心なんだ。それは、命を殺して食い、生きるために媚びへつらい、我欲まみれの一般の人々を救うための願いなんだ。であるから、本願を信じるために他の事をする必要はない。念仏に勝る善は無いし、バチが当たるとか当たらぬとか悪いことが起こるなどと言う迷信も恐れる事はない。阿弥陀様の本願を妨げる事のできる様な悪など無いのだから。 とまあ、わたしなりに解釈してみますとこんな感じでしょうか。 得てして私達は念仏だけで本当...