浄土真宗の信心
京都市 伏見区 日野 親鸞聖人誕生の地 日野誕生院
話を親鸞聖人の信心に戻しましょう。
勉強会で、住職が良く言われていたことに「信心には2つある」一つは「法の深信」そしてもう一つは「機の深信」
法の深信とは、仏法を信じること、阿弥陀如来の救いを信じること。
機の深信とは、地獄に落ちる私であると信じる。
という事。
機 法 二つの深信が揃って初めて真宗の信心が成立するのです。「二種深信」などと言われるのですが、特に、機の深信については、ここで既に何度か申し上げたように、地獄行の私の自覚です。
私達は、自分が地獄に落ちるという事がなかなか心の底からそう思うという事は出来ないのだろうと思います。
他人事として聞くことは容易いことですが、自分の事として聞いていくことが大変なのです。そうでなければ、仏様の前で、頭が下がるという事は起こってきません。
ある時、東別院にお参りに行った時の事。ちょうど秋葉原で、無差別殺人があった頃の事です。何名かの御門徒さんの前で、お坊さんがお話されていました。聞いているのは皆お年を召した方々でした。
「あの、秋葉原の事件を知って、皆さんどう思われましたか?あんな事をするなんて酷い。育てた親の顔が見たい!とんでもない事だ!と思いませんでしたか?」
皆さん頷いてらっしゃいました。中には、「本当になぁ、死にたきゃ自分で死んだらいい。誰かを殺して、死刑にして欲しいなどと、とんでもない。」
まさにそうです。わざわざ人を殺して、自分は国に殺してもらいたい。甘えるにも程がある。と思った方も少なくないのではないでしょうか?
しかし、その時そのお坊さんが言ったのです。
「皆さん方が、あの若者を育てた親の顔が見たい。と思うのは当然ですね。しかし、よく考えてください。あの若者を育てた親の世代を育てたのは、今ここにお座りの皆さん方なんですよ。」
それを聞いたみなさんは、一気に黙って、下を向いてしまわれました。仕事の途中でしたので最後までお話は聞けませんでしたが、まさに身を通して聞く。と言う事を教えて頂いた瞬間でした。
私達は、他人事、自分の身に直接降りかかって来た事しか、自分ごととして聞く事は難しい。ましてや、親鸞聖人の人生を学ぶことは800年も昔の話。なかなか自分に置き換えて考えるなんて、難しいのが実のところではないでしょうか。しかし、他人事としてしか聞けない。そうなると、やはり、親鸞聖人の人生を通した信心獲得の道が、単なる物語に終わってしまいます。
自分の信心の頂き方に繋がって行くことは起こりえないと思います。
そういう意味でも、やはり、浄土真宗は自覚道であると言えると思います。
お寺でお参りをする時に、お念珠に両手を入れて手を合わせるのは、身を通して仏法を聞くという事を表しているのだと、よく言われたのを思いだします。
誠心誠意、仏法を聞いて行きたいと思います。
水島見一著 「信は生活にあり 高光大船の生涯」
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