浄土真宗の信心とは①

浄土真宗の信心と言うのはいったい何であるのか。
前回の最後に申しあげました、念仏とは「自らの信仰の告白なんだ」と言うこと。念仏は何か自分の欲望を叶えるための「おまじない」でも、亡くなった方を浄土に送り出す「魔法の言葉」でもないのです。

これは仏様からの願い「大無量寿経」にあります、第18願「私の国に生まれたいと願って私の名を呼ぶものを私の国に生まれさせる」と言う仏様の願いから来ているのです。仏教においての救いとは、この世で自分の欲望を叶える事では決してなくて、悟りを開いて仏となって浄土に生まれる。と言うことなのです。
しかし、普通に暮らしている私たちは厳しい修行をして、悟りを開くなんて言うことは難しい。無理だと言ってよいと思います。と言うことは、私たちの様な一般の日々の生活に追われている者は、生きていれば食べなければなりません。テーブルに乗ったお肉やお魚料理は初めから死んでいた物ではありません。つい何時間、何日か前には生きていたのでしょう。その生きていた命を私の都合によって殺して生きている。仏教の戒律には「不殺生」つまり殺すな。と言うのがありますが、私達にはそれを守る事すらできないのです。したがって、その時点で死んで地獄に落ちるのは決定です。商売をしていれば時にはおべんちゃらも言うかもしれません。仕事の愚痴も言うでしょう。私達に戒律を守って生きるなんて言うことは無理なんです。と言うことは、私達の様な修行も出来ない人間にとっては仏教の救いは永遠に得られるものでは無くなってしまいます。しかし、そんな私達こそ救わねばならない対象なんだと、法蔵菩薩は決心し永く厳しい修行を経てその救いを私達に差し向けて下さった。それこそがお念仏であり、その救いを信じることが親鸞聖人の言う「信心」なのだと思います。ところがなのです。私達人間は「信じろ」と言われたからと言って「はい、そうですね」と簡単に頷けるかと言うと実はそう簡単ではないのです。本当に念仏だけで救われるのか?修行もしなくてはダメなんではないの?お寺にもっとお布施をしなくてはダメだろう?と疑問が湧いてきて、阿弥陀如来の救いを中々信じ切ることができないのです。それが厄介なのです。

そのような私達が抱える心の在りよう。葛藤が、親鸞聖人の言われる「信心獲得の道」なのではないでしょうか。



親鸞聖人の一生を学ぶ中で、親鸞聖人も色々な葛藤の中で生き、信心獲得の道を歩まれた事がよくわかります。例えば、関東で飢饉や疫病に苦しむ人々を見て、三部経を千回読誦をしてそのご利益によって人々を救いたいと、読み始めます。しかし、そんな事をしたからと言って疫病が無くなるわけでも、飢饉が治る訳でも無いと気づかれ何と愚かな私だと
自らを恥じておられます。

最初に、住職さんが言われた「親鸞聖人の信心の頂き方を学ぶ」と言う事がいかに大切な事なのかを、学び始める一番最初に意識づけをして下さった事は、私にとっては本当にあ有り難い事であったと思います。

親鸞聖人の信心の頂き方


これが大切なのです。

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