浄土真宗の救いは現世にある
死後の世界の救いが、現世に対して何か影響があるのでしょうか。
仏教の救いは、この世で悟りを開き仏となって浄土に生まれる。つまりは六道を離れるという事です。お聞きになったことがあると思いますが「輪廻転生」と言って、私たちは死ぬと生まれ変わるといいます。しかも六道「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人」「天」の六道を生まれては死に、生まれては死にを繰り返すと。
悟りを開いて浄土に生まれるという事は、六道を離れ、仏となって二度と六道を輪廻転生しない世界に入る事。
その救いが、浄土真宗では念仏一つで叶うというのです。しかし、よく考えてみれば、死んだ後をどれだけ救ってもらったところで何がそんなにいいのだか。。。
確かに、地獄に行くしか無いと思っていた私が浄土に行ける。これも私にとっては多変な喜びではあります。だからと言って私の身に何か驚くべき変化があったかと言えばそうではありません。人間というのは実に傲慢です。自分を見ていてつくづくそう思います。ついさっきまであんなに喜んでいた自分が居たにも拘わらず、今は信心があったってなんにも変わらないと不満を漏らしているのですから。
死んだあとが変わったところで、見た目には以前と何にも変わらない。相変わらずの風貌と相変わらずの人間嫌い。人と関係を作るのが下手で、作ってはすぐに壊してしまう。いわば「人生の失敗者」の私。仕事もたくさん変わってきました。うぬぼれの強い私は、何とかなると人生にたかをくくって生きてたのだろうと思います。決して稼ぎも多くはないのに好き放題やって、ついには離婚も経験しました。
他人から見れば、私の人生はおそらく「失敗者」なのだろうと思います。60歳を後5年というところにきて、老後のことも考えるようになってきました、これで良いのかと。。。
ただ、一つ私にとって変化があったとすれば、それは「己の人生を引き受ける」と言う考えが今の私には有るという事です。
うまく行かなければ人のせい、うまく行けば自分の手柄。
というのが人間ではないでしょうか。もちろん生きていればうまく行かないことのほうが多い。そんな時はやはり愚痴も出ます。「なんでこうなんだ」「なんで思い道理にいかんのや」「あいつのせいだ、あいつが俺の言う事を分からんからだ」愚痴いっぱいの日々。
仏法を学んでいても何一つ変わることのできない愚かな私なのです。どこまでも地獄に行くしかないのです。ところが、ひとしきりそんな思いが廻った後でふと思うのです。「これが私の人生なんだ、愚痴いっぱいの地獄行きの私の人生こそ、仏様が救ってやりたいと立ち上がってくださった大事な私の人生なんだと。
そんな時、高光大船の言葉が蘇ります。「それでええがか?」「それでええがや」金沢弁です。それでいいのか?それでいいんだよ。という意味なんだろうと思います。
愚痴いっぱいの人生を送っていて、仏法を聞かなくても良いのか?
このまんままで良いんだ。このまんまで救われていけばいいんだ。
親鸞聖人の教えを凝縮した言葉だと思います。
仏教は、死後の世界の救を説いた教え。もちろん浄土真宗もそれは同じです。しかし、親鸞聖人の言う救いとは決して死後の救いの事ではありません。生きている今、今現在が救いに向かっていく延長線上にあるのです。死後の世界が救われると言う事は堂々と、今を苦しめる。思い通りにならない、願いが叶わない今を生きられる。言い換えれば現世がすでに救われているという事です。信心がはっきり決まる事で今を生き切る。地獄行の私こそ浄土往生の種なんですから。いま目のまえにある思い道理にいかない私の環境が、今、この場所こそが実はすでに浄土、今、今現在こそ浄土なのです。
愚痴があってもいい。思い道理にいかなくてもいい。堂々と引き受けながら、南無阿弥陀仏と仏様に手を合わせる。そしてあるがまんまで救われていく。それが浄土真宗の救いなのだと思うのです。
仏教の救いは、この世で悟りを開き仏となって浄土に生まれる。つまりは六道を離れるという事です。お聞きになったことがあると思いますが「輪廻転生」と言って、私たちは死ぬと生まれ変わるといいます。しかも六道「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人」「天」の六道を生まれては死に、生まれては死にを繰り返すと。
悟りを開いて浄土に生まれるという事は、六道を離れ、仏となって二度と六道を輪廻転生しない世界に入る事。
その救いが、浄土真宗では念仏一つで叶うというのです。しかし、よく考えてみれば、死んだ後をどれだけ救ってもらったところで何がそんなにいいのだか。。。
確かに、地獄に行くしか無いと思っていた私が浄土に行ける。これも私にとっては多変な喜びではあります。だからと言って私の身に何か驚くべき変化があったかと言えばそうではありません。人間というのは実に傲慢です。自分を見ていてつくづくそう思います。ついさっきまであんなに喜んでいた自分が居たにも拘わらず、今は信心があったってなんにも変わらないと不満を漏らしているのですから。
死んだあとが変わったところで、見た目には以前と何にも変わらない。相変わらずの風貌と相変わらずの人間嫌い。人と関係を作るのが下手で、作ってはすぐに壊してしまう。いわば「人生の失敗者」の私。仕事もたくさん変わってきました。うぬぼれの強い私は、何とかなると人生にたかをくくって生きてたのだろうと思います。決して稼ぎも多くはないのに好き放題やって、ついには離婚も経験しました。
他人から見れば、私の人生はおそらく「失敗者」なのだろうと思います。60歳を後5年というところにきて、老後のことも考えるようになってきました、これで良いのかと。。。
ただ、一つ私にとって変化があったとすれば、それは「己の人生を引き受ける」と言う考えが今の私には有るという事です。
うまく行かなければ人のせい、うまく行けば自分の手柄。
というのが人間ではないでしょうか。もちろん生きていればうまく行かないことのほうが多い。そんな時はやはり愚痴も出ます。「なんでこうなんだ」「なんで思い道理にいかんのや」「あいつのせいだ、あいつが俺の言う事を分からんからだ」愚痴いっぱいの日々。
仏法を学んでいても何一つ変わることのできない愚かな私なのです。どこまでも地獄に行くしかないのです。ところが、ひとしきりそんな思いが廻った後でふと思うのです。「これが私の人生なんだ、愚痴いっぱいの地獄行きの私の人生こそ、仏様が救ってやりたいと立ち上がってくださった大事な私の人生なんだと。
そんな時、高光大船の言葉が蘇ります。「それでええがか?」「それでええがや」金沢弁です。それでいいのか?それでいいんだよ。という意味なんだろうと思います。
愚痴いっぱいの人生を送っていて、仏法を聞かなくても良いのか?
このまんままで良いんだ。このまんまで救われていけばいいんだ。
親鸞聖人の教えを凝縮した言葉だと思います。
仏教は、死後の世界の救を説いた教え。もちろん浄土真宗もそれは同じです。しかし、親鸞聖人の言う救いとは決して死後の救いの事ではありません。生きている今、今現在が救いに向かっていく延長線上にあるのです。死後の世界が救われると言う事は堂々と、今を苦しめる。思い通りにならない、願いが叶わない今を生きられる。言い換えれば現世がすでに救われているという事です。信心がはっきり決まる事で今を生き切る。地獄行の私こそ浄土往生の種なんですから。いま目のまえにある思い道理にいかない私の環境が、今、この場所こそが実はすでに浄土、今、今現在こそ浄土なのです。
愚痴があってもいい。思い道理にいかなくてもいい。堂々と引き受けながら、南無阿弥陀仏と仏様に手を合わせる。そしてあるがまんまで救われていく。それが浄土真宗の救いなのだと思うのです。
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