人は迷うもの
信心を頂いた私は、常に幸せか?と言えば決してそうではありません。
人は迷い、悩み、苦しみ続けるのだろうと思います。考えてみれば、この世は地獄の様な場所に違いないのですから。苦しみの種はそこら中にあるのでは無いでしょうか。常に人と自分を比べて生きて行かなければならない世の中に生きている以上、その苦しみから抜ける事など無いのだろうと。
しかしながら信心をいただくと言う事は、行く先の決まった船に乗っている様なものだとも言えるのです。時には荒波に揉まれながら思わぬ岸に着く事もあるでしょう。細波の中を行く事も。しかし、行く先が決まった人生と言うのはそれ以上に慌てる事は無いのだろうと思います。
悩みがあっても良い。仏様に手を合わせれば浄土に来いと誘っていただける。
同じ所をグルグル回っている様で、実は信心はより深まって行く。
真宗の信心とは、立体的なのです。
深さが増して行く。その為には、光に常に照らされていなければならないとも思います。なぜなら、私の心の闇は光に照らされてこそハッキリ自覚できるからです。人は、自分の顔を自分で見る事ができない様に、心の闇を自ら見る事はできません。仏様に照らされてこそ己の心の闇がより鮮明に見えるのです。
闇を闇として、ハッキリと頂きたいものだと思います。
人は迷い、悩み、苦しみ続けるのだろうと思います。考えてみれば、この世は地獄の様な場所に違いないのですから。苦しみの種はそこら中にあるのでは無いでしょうか。常に人と自分を比べて生きて行かなければならない世の中に生きている以上、その苦しみから抜ける事など無いのだろうと。
しかしながら信心をいただくと言う事は、行く先の決まった船に乗っている様なものだとも言えるのです。時には荒波に揉まれながら思わぬ岸に着く事もあるでしょう。細波の中を行く事も。しかし、行く先が決まった人生と言うのはそれ以上に慌てる事は無いのだろうと思います。
悩みがあっても良い。仏様に手を合わせれば浄土に来いと誘っていただける。
同じ所をグルグル回っている様で、実は信心はより深まって行く。
真宗の信心とは、立体的なのです。
深さが増して行く。その為には、光に常に照らされていなければならないとも思います。なぜなら、私の心の闇は光に照らされてこそハッキリ自覚できるからです。人は、自分の顔を自分で見る事ができない様に、心の闇を自ら見る事はできません。仏様に照らされてこそ己の心の闇がより鮮明に見えるのです。
闇を闇として、ハッキリと頂きたいものだと思います。
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