親鸞聖人の声を聴く



親鸞聖人の頂いた信心を理解する上で、やはり親鸞聖人の歩まれた人生を見て行く必要があるだろうと思います。しかし、ここでは難しい事をおさらいする事はやめておこうと思います。そんな事であれば、私がこのブログに書かなくても、他に沢山のブログやネットに、既にあるからです。

私にとって親鸞聖人の教えの根本は、親鸞聖人が書かれた「教行信証」と言う本に書かれている、「序」の部分です。

お寺での勉強会の初めに、住職から言われた「私たちは、これから親鸞聖人のことを学んでいきます。しかしそれは、親鸞聖人を崇め奉るために学ぶのではありません。親鸞聖人の歩んだ道を学び、それを通して親鸞聖人の頂いた信心の頂き方を学ぶのです。」の他に「教行信証」の序の部分は覚えなさい。と言われました。そりゃあもう一生懸命覚えました。覚えたのは3つ。「総序」「信の巻の序」「後序」

何しろ昔の文章です、住職に一字一句解説をしてもらいながら意味を覚えて空で言えるように頑張ったんです。

大変でしたけれど、今、私が親鸞聖人の信心について思う時、大変大切なものを学ばせて頂いたと思っています。親鸞聖人の直接の言葉が、そこにはあるのです。文字に書かれた内容から、親鸞聖人の心が、およそ800年の時を超えて響いてくるのです。

今でも諳んじられますから、本山にお参りに行った時などは、御真影の前でブツブツ呟きながらお参りをしてきます。

「ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かえってまた曠劫を径歴せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世稀有の正法、聞思して遅慮することなかれと。」

親鸞聖人の信心を得た喜びの言葉です。そのお心が、私にも伝わってくるのです。そして、お前も、仏法を、阿弥陀さんの教えを聞けよ、迷って思いとどまるでは無いぞ。と、お勧め頂けているように思うのです。

最初は、言葉も難しく、ピンと来ませんでしたが、何度も何度も繰り返し諳んじていると、感じるものがあるのです。

これは、真宗の経本にも「聖句」として載っていますので、読んで頂くと良いと思います。

親鸞聖人の声が、どこかから聞こえてくるかもしれません。

後序には、こんな言葉があります。

「信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に表し、妙果を安養に顕さんと。」

疑いの心を縁として、信ずる心と、お念仏によって、浄土に生まれよ。

仏法を聞くことで、愚かな私を知って、仏様に手を合わせるしかない己を知ることが大切な事ではないでしょうか。

そいう意味で、難しい内容ではあっても、一度は通り抜けておくことも大切なことでは無いかと思います。難解であったり、意味が分からないと感じることであっても、その中から伝わってくる、親鸞聖人の我々後の者に対する心が、そこにはあるのだと思います。

後序にあります、「前に生まれんものは後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくば休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と。」

親鸞聖人が、私を導いて下さっているのです。

私は、親鸞聖人を訪ねなければなりません。

あの、およそ5年間に及ぶ、住職や仲間の人たちと過ごした時は、信心沙汰をする貴重な時間であったと思います。

たくさんの事柄がありましたが、ぜひ記しておきたい一人の御同行との出来事を、次回から記していこうと思います。







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