歎異抄 第二条
東本願寺 手水舎の竜 第二条 おのおの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たずねきたらしたまう御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法門等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく坐せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけまいらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。 親鸞聖人は、流罪に会いますが、39歳の頃に赦されます。しかし、そのまま真っ直ぐに京都には帰らず、関東で20年余りを過ごされ、その間に沢山の方々に念仏の教えを広めました。しかし、60歳を前に京都に戻り「教行信証」の仕上げに入られます。残されたお弟子さん達の間では、教えを守る生活の中で、迷いや疑問が生じてきます。それを解決する為、教えを直接受けることのできる師を訪ねて、関東からはるばる来られたお弟子さん達に向けた言葉が、この第二条です。今でこそ、東京から京都までは、新幹線なら2時間半ほどで着いてしまいます。しかし、時は750年ほども前の話。新幹線はおろか、電車やバスなどあるはずがありません。当然、歩いて行かれたのです。東京から京都まで、1日20キロ歩いたとしても20日以上かかります。大変な旅であったに違いありません。もしかしたら、盗賊に襲われてしまうかもしれませんし、病に倒れ、命を落とす様なこともあったかもしれませんね。その様な危険を冒してまでも、わざわざ京都に行かなければならなかったのは、ひとえに往生の道を師匠に聞かなければならなかったからなのです。私達は、死んだらどうなるんだろ?念仏だけで本当に良いのか?その様な迷いがあったのだろうと思います。しかし、だれもそれに答えてはくない。師匠を失った残された人々の中には、本来の教えとは違った事を言い出す人もいました。当時の関東のお弟子さんは混乱します。親鸞聖人は、息子の善鸞さんを行かせてその様な混乱を収めさせようとします。しかし、なかなかそれもうまくいかず、困った善鸞さんは、お弟子さんたちに自分の言う事を聞かせようと「父、親鸞から自分だけが教わった浄土往生...