目覚めると言う事
東本願寺 真宗の信心にとって「地獄行きの私の自覚」と言うことが大切だとお話しました。 しかし、自覚しただけで良いのかと言うと、そうではありません。 そこから立ち上がると言うか、そこからの生き方を私達は問い返されているのでは無いかと思います。 例えば、私を例に取れば、子供達に勉強を教えると言う仕事をしています。当然ながら、子供達には、前回より良い点が取れるようになって貰いたい。その結果、少しでも良い学校に行って欲しい。その先には、少しでも良い会社に就職してもらいたい。そして、少しでも多く稼いで豊かな暮らしをしてもらいたい。と言う思いがあります。預けられる親御さんの願いもあります。 成績が悪ければ、親御さんは子供に向かって「こんな点数で大丈夫か?高校に行けないぞ」と当然言うのです。言われた子供にしても、良い点数を取らなければならない事は、わかっています。しかし、勉強が好きな子供なんて、そうそうは居ません。ナマ返事をして、次に悪かったら塾に入れる!とか言われて、次のテストも結果が良くなくて、親に言われて渋々やってくるのが特に中学生の殆どです。 お預かりして、いざ授業を始めても、元々が勉強が嫌いな子供達です。そう簡単には成績は上がりません。当然、子供達は親に叱られます。高い月謝を払って、塾に通わせても、結果は変わらない。それはもう、私達も去る事ながら子供達は、さぞかし居心地の悪い時間をテストの後には過ごす事になる訳です。 今の世の中の仕組みを考えれば、親の気持ちも当然よく分かります。逆に、やりたくも無い勉強を無理やりやらされている子供達の気持ちも、よく分かる訳です。 SMAPの「世界に一つだけの花」が流行りましたよね。あの歌が大嫌いな方は少ないと思います。「ナンバーワンにならなくても良い。元々特別なオンリーワン」まさにその通り。 最近では、個性であるとか、多様な生き方を認める世の中をと、盛んに言われます。 しかしながら、我が子の事となると、そうは行かないのが人間では無いでしょうか。親にしてみれば、我が子が死ぬまで面倒を見られる訳ではありません。自分がこの世を去った後も、我が子が困らないようにと、何とか学力ぐらいは付けてやりたい。自分が世を去った後も大事な我が子が困らないようにとの思いがある訳です。 しかし、逆に言えば、こうで無...