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9月, 2019の投稿を表示しています

人は迷うもの②

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人間と言うのは弱いものです。 浄土真宗では、占いやご祈祷はしません。神社へのお参りも基本的にはしません。なぜなら、起こってくる自分にとっては悪いことも、すべては縁であるのだから、神頼みしたからと言って変わるものではありませんし、たとえば自分の子供がいい学校に受かるように祈ることは逆に言えばほかの家の子供を落としてくださいとお願いしているようなものだからです。また、日の吉凶や方角を気にしたりすることも否定します。方角に吉や凶が果たしてあるのでしょうか?よしんばあったとして、自分が死ぬか生きるかの瀬戸際に救急病院の方角が悪いからと言って方角を気にしている余裕があるでしょうか?そんな時は方角が良かろうが悪かろうが真っ直ぐに病院に急いでくれと言うのではないでしょうか。 その年の無病息災を願ってよい方角に向かって巻きずしに齧り付くなどと言う風習が最近は盛んですが、あれなどは只の気休めにしかなりません。皆んなが同じ方角を向いて巻き寿司にかじりついている光景を想像して見て下さい。滑稽な姿では無いでしょうか? あるいは今日は友引だからお祝い事は止めたほうがいいなんて果たして根拠はあるのでしょうか?そもそもあの仏滅だとか友引だとかいう呼び方は賭け事を根拠にした呼び方です。大した根拠もないものに惑わされているのが私達ではないのかと思うのです。 ところが、これが自分の子供の事となるとうかつにもこの私は今年のお正月に娘のためにお守りを買ってしまうという事がありました。 京都に出かけ本山にお参りをした後、円山公園まで足をのばし親鸞聖人のお墓のある真宗祖廟にお参りした後の事です。建仁寺のすぐそばに猪をお祀りをしたお寺があるのですが、そこを通りかかったときにふと娘のためにと迷いに迷った挙句にお参りし、お守りを買って帰ってきてしまいました。今年は娘が24歳の年女という事もあり娘の事を気にかけていたことが原因であったとは思いますが、本当に不覚にもお守りを買ってきてしまっ たのです。 あれほど真宗を聞いていながらです。 やはり人間とは弱く迷うものなのだと思わずにはいられない出来事でした。しかし、それも私という人間がつくずく真宗の教えを理解していないことの証であるし、わかっているようなわかっていないようなどうにもならない人間なのだという事の証明であろうと思う...

人は迷うもの

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信心を頂いた私は、常に幸せか?と言えば決してそうではありません。 人は迷い、悩み、苦しみ続けるのだろうと思います。考えてみれば、この世は地獄の様な場所に違いないのですから。苦しみの種はそこら中にあるのでは無いでしょうか。常に人と自分を比べて生きて行かなければならない世の中に生きている以上、その苦しみから抜ける事など無いのだろうと。 しかしながら信心をいただくと言う事は、行く先の決まった船に乗っている様なものだとも言えるのです。時には荒波に揉まれながら思わぬ岸に着く事もあるでしょう。細波の中を行く事も。しかし、行く先が決まった人生と言うのはそれ以上に慌てる事は無いのだろうと思います。 悩みがあっても良い。仏様に手を合わせれば浄土に来いと誘っていただける。 同じ所をグルグル回っている様で、実は信心はより深まって行く。 真宗の信心とは、立体的なのです。 深さが増して行く。その為には、光に常に照らされていなければならないとも思います。なぜなら、私の心の闇は光に照らされてこそハッキリ自覚できるからです。人は、自分の顔を自分で見る事ができない様に、心の闇を自ら見る事はできません。仏様に照らされてこそ己の心の闇がより鮮明に見えるのです。 闇を闇として、ハッキリと頂きたいものだと思います。

浄土真宗の救いは現世にある

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死後の世界の救いが、現世に対して何か影響があるのでしょうか。 仏教の救いは、この世で悟りを開き仏となって浄土に生まれる。つまりは六道を離れるという事です。お聞きになったことがあると思いますが「輪廻転生」と言って、私たちは死ぬと生まれ変わるといいます。しかも六道「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人」「天」の六道を生まれては死に、生まれては死にを繰り返すと。 悟りを開いて浄土に生まれるという事は、六道を離れ、仏となって二度と六道を輪廻転生しない世界に入る事。 その救いが、浄土真宗では念仏一つで叶うというのです。しかし、よく考えてみれば、死んだ後をどれだけ救ってもらったところで何がそんなにいいのだか。。。 確かに、地獄に行くしか無いと思っていた私が浄土に行ける。これも私にとっては多変な喜びではあります。だからと言って私の身に何か驚くべき変化があったかと言えばそうではありません。人間というのは実に傲慢です。自分を見ていてつくづくそう思います。ついさっきまであんなに喜んでいた自分が居たにも拘わらず、今は信心があったってなんにも変わらないと不満を漏らしているのですから。 死んだあとが変わったところで、見た目には以前と何にも変わらない。相変わらずの風貌と相変わらずの人間嫌い。人と関係を作るのが下手で、作ってはすぐに壊してしまう。いわば「人生の失敗者」の私。仕事もたくさん変わってきました。うぬぼれの強い私は、何とかなると人生にたかをくくって生きてたのだろうと思います。決して稼ぎも多くはないのに好き放題やって、ついには離婚も経験しました。 他人から見れば、私の人生はおそらく「失敗者」なのだろうと思います。60歳を後5年というところにきて、老後のことも考えるようになってきました、これで良いのかと。。。 ただ、一つ私にとって変化があったとすれば、それは「己の人生を引き受ける」と言う考えが今の私には有るという事です。 うまく行かなければ人のせい、うまく行けば自分の手柄。 というのが人間ではないでしょうか。もちろん生きていればうまく行かないことのほうが多い。そんな時はやはり愚痴も出ます。「なんでこうなんだ」「なんで思い道理にいかんのや」「あいつのせいだ、あいつが俺の言う事を分からんからだ」愚痴いっぱいの日々。 仏法を学んでいても何一つ変わることのできない...

地獄行の私の自覚

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私にとって、自分が地獄に落ちるしかない身であった事を比較的早くに自覚できていたことは、私が親鸞聖人の信心を理解していくうえで非常に良かったことでした。 真宗を理解するうえで、自分が地獄に落ちる身であるという事を普通に生きている方が自覚することは難しのではないでしょうか? いきなり「貴方は地獄に落ちるのですよ」と初めて会った人から言われたら、皆さんはどんな返事をなさるでしょう? 「はい、その通りです。」とお答えになられるでしょうか? 「えっ?何言うてるんや?あほか?」と怒りの気持ちを相手に対してお持ちになるのではないでしょうか? 普通の人は後者だと思います。 別に人殺しをした訳でもなし、何で私が地獄に行かなきゃならないんだ?そう思うのが当然です。しかし、仏教においては違います。仏教は、そんな法律に触れている触れていないなどという生易しいものではありません。私達は、毎日命を殺して食べて生きています。自分が直接殺していなくても、誰かが私が生きるために命を殺して、料理をしたものを自分が食べて生きているのです。何かの命を踏み台にして、私たちは生きているのです。 また、嘘を今までついたことが一度もないという人がいるでしょうか? 生きていく中で、お世辞を一度も言ったことのない人がいるでしょうか? 一度や二度はそんな嘘や、お世辞を言った経験はお持ちの事と思います。しかし、それで刑務所に行かなければならないわけではありませんし、それが元で地獄に行かなければならないなんて誰も想像はしないと思います。 しかし、仏教はそれを許しません。 嘘、二枚舌 戒律に反しています。ですから、そんな貴方は地獄行き決定なのです。 私は、20代の後半にあるキリスト教系の新興宗教に入信していました。 誰でもが良くご存知のあの教団です。 当時の私は、仕事にも私生活にも行き詰まっていました。どうして何をやっても上手くいかないのだろうと悩んだ挙句に、私自身の生き方もさることながら、先祖の犯してきた罪を償わなければ、今の人生そのものも変わらないと言われ、先祖の罪の復帰(蕩減復帰)を目指してその教団に入っていったのです。 今でこそかなり緩くなったと聞きましたが、当時はそれはそれは厳しい教えでした。キリストは、十字架にかけられて人間の魂は救われている。しか...

浄土真宗の信心とは②

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親鸞聖人の信心の頂き方とはどんなものであったのか? 一言で言ってしまえば、それは迷いがあってもいいということだろうと思います。 阿弥陀如来の救いはこれこれこうなのだ、だからそれを信じようと心の決めたとしても、あーでもない、こうでもないと理由をつけては他のことをやりたがります。 念仏一つで浄土に生まれる。念仏は「南無阿弥陀仏」の六文字です。この、たった六文字を称えるだけで浄土に生まれることができる。しかし、人間はおかしなもので簡単であればあるほどに疑いの目でそれを見始めます。 歎異抄という書物にこんな親鸞聖人の言葉があります。 歎異抄 第一条 弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて、往生をとぐるなりと信じて念仏申さんと思い立つ心の起こるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり。弥陀の本願には、老小、善悪の人を選ばず、ただ信をもって要とするべし。その故は、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をば助けんがための願にてまします。しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏に勝るべき善無きゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪無きゆえにと云々。 阿弥陀さんの救いを信じて浄土に生まれたいと信じて念仏しようと思ったその瞬間にすでにすくい取って捨てないという阿弥陀さんの救いの利益に会っているんだ。阿弥陀さんの救いには、自ら修行をして救いを求めるもの、自ら修行ができないがその救いを求めるもの、善い行いを常に心がけるものまたそうでないものも選ばない。その訳は、常に罪を作りながら生きなければならないどうしようもない罪深い人々、煩悩のままに生きるほかない一般の人々を救いたいという願いに他ならないのだから。だから、阿弥陀さんの救いを信ずるのに他の善(修行をしたり、善い行いをしたり)は必要ではない。念仏に勝る善業は無いのだから。悪も恐れることはない。阿弥陀さんの救いを妨げられるほどの悪はないのだから。 この歎異抄の第一条も後半、親鸞聖人は阿弥陀さんの救いを信ずるのに他の善(修行をしたり、善い行いをしたり)は必要ではない。念仏に勝る善業は無いのだから。悪も恐れることはない。阿弥陀さんの救いを妨げられるほどの悪はないのだから。と話しておられます。にも拘わらず私たちは、念仏だけではダメだろうとほかの事を探し始めるのです。私達人間の信じる気持ちという...

浄土真宗の信心とは①

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浄土真宗の信心と言うのはいったい何であるのか。 前回の最後に申しあげました、念仏とは「自らの信仰の告白なんだ」と言うこと。念仏は何か自分の欲望を叶えるための「おまじない」でも、亡くなった方を浄土に送り出す「魔法の言葉」でもないのです。 これは仏様からの願い「大無量寿経」にあります、第18願「私の国に生まれたいと願って私の名を呼ぶものを私の国に生まれさせる」と言う仏様の願いから来ているのです。仏教においての救いとは、この世で自分の欲望を叶える事では決してなくて、悟りを開いて仏となって浄土に生まれる。と言うことなのです。 しかし、普通に暮らしている私たちは厳しい修行をして、悟りを開くなんて言うことは難しい。無理だと言ってよいと思います。と言うことは、私たちの様な一般の日々の生活に追われている者は、生きていれば食べなければなりません。テーブルに乗ったお肉やお魚料理は初めから死んでいた物ではありません。つい何時間、何日か前には生きていたのでしょう。その生きていた命を私の都合によって殺して生きている。仏教の戒律には「不殺生」つまり殺すな。と言うのがありますが、私達にはそれを守る事すらできないのです。したがって、その時点で死んで地獄に落ちるのは決定です。商売をしていれば時にはおべんちゃらも言うかもしれません。仕事の愚痴も言うでしょう。私達に戒律を守って生きるなんて言うことは無理なんです。と言うことは、私達の様な修行も出来ない人間にとっては仏教の救いは永遠に得られるものでは無くなってしまいます。しかし、そんな私達こそ救わねばならない対象なんだと、法蔵菩薩は決心し永く厳しい修行を経てその救いを私達に差し向けて下さった。それこそがお念仏であり、その救いを信じることが親鸞聖人の言う「信心」なのだと思います。ところがなのです。私達人間は「信じろ」と言われたからと言って「はい、そうですね」と簡単に頷けるかと言うと実はそう簡単ではないのです。本当に念仏だけで救われるのか?修行もしなくてはダメなんではないの?お寺にもっとお布施をしなくてはダメだろう?と疑問が湧いてきて、阿弥陀如来の救いを中々信じ切ることができないのです。それが厄介なのです。 そのような私達が抱える心の在りよう。葛藤が、親鸞聖人の言われる「信心獲得の道」なのではないでしょうか。 親鸞聖人の一生を学ぶ...

浄土真宗の信仰とは

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浄土真宗の信仰とは 私が浄土真宗を学びはじめた頃、教えの師匠であるお寺の住職がこんな事をおっしゃっていました。「私たちは、これから親鸞聖人のことを学んでいきます。しかしそれは、親鸞聖人を崇め奉るために学ぶのではありません。親鸞聖人の歩んだ道を学び、それを通して親鸞聖人の頂いた信心の頂き方を学ぶのです。」この言葉は、私の信仰の原点です。この言葉があったからこそ、私は、信仰とは何ぞや?親鸞の信心とはいったい何であるのかを追い求め続けて来れたように思います。現在、宗教。とりわけ日本における信仰と言うと、自分の願いを叶えてもらうこと。仏教においては、法事や仏事は亡くなった方をより良い所へ送り出す儀式に過ぎないと考えている方も少なくないと思います。しかし、仏教も立派な宗教であり仏様は信仰の対象であります。ましてや、浄土真宗はその信心ということを多変大事にしてきた宗派であります。ところが、現状はといえばお寺は信心についてあまり語らない。仏事や、法事を執り行い、お布施を集めることに専念しているお寺が本当に多いように思います。親鸞聖人の頂いた信心とは何であるのか。そのことがどこかへ忘れ去られ形だけになった真宗を見たり聞いたりするにつけ、大変残念に思います。 浄土真宗における信心とは「南無阿弥陀仏」念仏です。 南無とは、インドの言葉で「ナマス」=「信じます」 阿弥陀とは「アミターバ」=「無限の光」 仏とは「ブーダ」=「悟りを開いた人」 つまり、念仏は亡くなった方を良いところに送り出す呪文でも、願いを叶える魔法の言葉でもありません。 まさに「南無阿弥陀仏」=「私は、無限の光である悟りを開いた仏様の救いを信じます」と言っているのであって、紛れもなく私自身の信仰の告白なのです。では、仏様の救いとは何であるのか?そのことについて今後少し語って行こうと思います。

自己紹介

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自己紹介 はじめまして。釈慈賢と申します。生まれて初めてブログと言うものに挑戦します。 うまくできるのか?不安もありつつスタートしようと思います。 まずは私の自己紹介。 法名     釈慈賢     浄土真宗大谷派のお寺でお剃刀を受けました。現在 55 歳のサラリーマンです。人生って何なんだろう?私の人生は何のためにあるのだろう?と漠然とした悩みを抱え、キリスト教を聞いてみたり色々した中で私は地獄に行くしか無いと思って生きて来ました。そんな中で真宗と出会い、親鸞聖人の教えを聞きながら今日まで歩んできました。私の受け取った信心とは?色々ネットでも言われていますが、なんか難しい。よくわからない。ならば、自分の生活を通した頂きかたを書いてみると、もう少しわかりやすいものにならないかと思って、今回このブログを立ち上げました。 まだまだ勉強する事が沢山ありますが、私の頂き方を告白する事で、真宗の信心がより身近になれば良いなと思うと共に、私のブログを通して出会う方がいらっしゃるとしたら、そのかたがたと、共に研鑽していければと思います。どうか、拙い私の文章にお付き合い下さい。よろしくお願いします。