人は迷うもの②

人間と言うのは弱いものです。 浄土真宗では、占いやご祈祷はしません。神社へのお参りも基本的にはしません。なぜなら、起こってくる自分にとっては悪いことも、すべては縁であるのだから、神頼みしたからと言って変わるものではありませんし、たとえば自分の子供がいい学校に受かるように祈ることは逆に言えばほかの家の子供を落としてくださいとお願いしているようなものだからです。また、日の吉凶や方角を気にしたりすることも否定します。方角に吉や凶が果たしてあるのでしょうか?よしんばあったとして、自分が死ぬか生きるかの瀬戸際に救急病院の方角が悪いからと言って方角を気にしている余裕があるでしょうか?そんな時は方角が良かろうが悪かろうが真っ直ぐに病院に急いでくれと言うのではないでしょうか。 その年の無病息災を願ってよい方角に向かって巻きずしに齧り付くなどと言う風習が最近は盛んですが、あれなどは只の気休めにしかなりません。皆んなが同じ方角を向いて巻き寿司にかじりついている光景を想像して見て下さい。滑稽な姿では無いでしょうか? あるいは今日は友引だからお祝い事は止めたほうがいいなんて果たして根拠はあるのでしょうか?そもそもあの仏滅だとか友引だとかいう呼び方は賭け事を根拠にした呼び方です。大した根拠もないものに惑わされているのが私達ではないのかと思うのです。 ところが、これが自分の子供の事となるとうかつにもこの私は今年のお正月に娘のためにお守りを買ってしまうという事がありました。 京都に出かけ本山にお参りをした後、円山公園まで足をのばし親鸞聖人のお墓のある真宗祖廟にお参りした後の事です。建仁寺のすぐそばに猪をお祀りをしたお寺があるのですが、そこを通りかかったときにふと娘のためにと迷いに迷った挙句にお参りし、お守りを買って帰ってきてしまいました。今年は娘が24歳の年女という事もあり娘の事を気にかけていたことが原因であったとは思いますが、本当に不覚にもお守りを買ってきてしまっ たのです。 あれほど真宗を聞いていながらです。 やはり人間とは弱く迷うものなのだと思わずにはいられない出来事でした。しかし、それも私という人間がつくずく真宗の教えを理解していないことの証であるし、わかっているようなわかっていないようなどうにもならない人間なのだという事の証明であろうと思う...